

創業(1890年)以来、地元新潟県上越市と、そこに暮らす人々とともに歩んできた岩の原葡萄園。そこでのワイン造りの魅力、創業者川上善兵衛への想いを伝えます。
代表取締役社長 棚橋博史
岩の原葡萄園との出合いは、ワインの世界に入って間もなく手にしたある本に書かれていた「雪国のワイン」という章を読んだ時のことです。“2月になって北陸からの大雪の便りが届く頃になると、いつも私の頭に浮かぶのはその深い雪の下に眠っている岩の原のワインのことである。”という冒頭文が頭から離れず、「いつかは岩の原葡萄園でワイン造りをしてみたい」という想いが日に日に強まりました。それから30年余りを経て、とうとう私の岩の原での生活が始まったのでした。


念願かなって岩の原葡萄園に来てからは、豪雪はもとより、越後上越の地におけるワイン造りの難しさを改めて知ることになりました。近隣高田市の観測所によれば、ここ30年での平均の年間降水量は2,755ミリメートル。台風銀座といわれる鹿児島や宮崎、高知でも年間降水量は2,300~2,500ミリメートル程度なのですが、それを上回る数字です。ぶどうは極端に雨を嫌いますので、「この降水量は雪のせいだろう」と思っていると、雪の降らない4月~10月の平均で見ても1,135ミリメートル。日本におけるワイン造りが盛んな甲府ではこの時期874ミリメートル、フランスのボルドーでは525ミリメートルです。甲府の1.3倍、ボルドーの2倍以上も雨の多いところで、なぜ創業者川上善兵衛はワイン用のぶどう栽培をはじめたのか。なぜ、立派なぶどうが育っているのか……。
それこそがこの葡萄園の歴史そのものであり、岩の原の存在意義であることを、この後実感するのでした。
現在の岩の原葡萄園(新潟県上越市北方)一帯から日本海にかけての大地主であった川上家の家督を継いだのは、川上善兵衛7歳の時。当時(明治初期)の岩の原はその厳しい気候ゆえ稲は3年に一度くらいしかまともに育たず(三年一作)、農民の生活は貧しく、冬になれば出稼ぎという家族も多くある状態でした。幼い頃からそうした窮状を目の当たりにしながら、家長としての厳しい教育を受けて育った少年善兵衛には、「この地の人々を守る」という意識が強く芽生えたのだと思います。今のような優れた農業技術もなく、治水設備も整っていなかった時代、岩地を切り拓きぶどう栽培を始めることは、並大抵の覚悟ではなかったでしょう。
それでも人々の生活の向上を願い、年間を通じて安定した仕事をもたらし、かつ近代化の流れを捉えたワイン造りという新しい産業にチャレンジしたのは、ひとえに地元への愛着と、責任感に突き動かされたからだと思います。私はひとりの人間としてそうした善兵衛の生き方に感銘を受けましたし、さらにこの地に暮らしてみて、その気持ちがよく理解できました。上杉謙信公のお膝元、上越の歴史風土の中には人や社会への「義」の精神が今も息づいています。


善兵衛の意志を継ぐ私たちが地元とともに生き、地域の発展に尽くすということは、企業としての社会的責任を果たすなどという建前の理屈ではなく、いわばごく自然のことだったと受け止めています。

善兵衛が生まれ、育った時代は、明治維新を経た日本が西洋化の波を受け、大きな変革を迎えていた時期でした。あらゆる価値観が変わっていく中、もともとは海外から持ち込まれたワインという文化を「日本でつくる」ことにこだわった川上善兵衛の意志を、私たちは尊重しています。
ワインというものは、多様性を楽しむ飲み物です。原料となるぶどうが育つ土地ごとのテロワール*や毎年の気象によっても味や風味が大きく変化し、それはまさに千差万別。その土地が持つ個性を余すところなく引き出してこそ、そのワインの価値は高まると思っています。

西洋から入って来たワインの世界ですが、今では世界中のワインを日本にいながらにして楽しむことができます。それはもちろん、ワインの楽しみを広げる意味でとても大切なことです。一方で、日本の風土を反映したぶどうを育て、日本の食文化と調和した「日本のワイン」を極めていくことも非常に大切だと思っています。どんなにグローバル化が進んでも、そのスタンダードに合わせるのではなく、岩の原らしさを追究していくこと、その上で「美味しい」と言っていただけるワインを造り続けることが岩の原葡萄園に課せられた使命だと思っています。

*テロワール…「土地」を意味するterre(フランス語)を語源とし、ぶどうにおける生育環境(土壌や気候)を表す言葉

降水量が多い土地でも栽培でき、欧州系のぶどうのようにワインにしても香味を醸し出す品種はどうしたらつくれるのか。善兵衛は1万回以上の交雑を繰り返し、ついに納得できるぶどう品種を生み出しました。そのうちのひとつ、マスカット・ベーリーAが世界的に認められ、OIV(国際ブドウ・ワイン機構)に登録されたのはこの品種が交雑されてこの世に誕生してから86年目。善兵衛が没した69年後のことでした。善兵衛は自分の生がある間にその栄光を見ることはできませんでしたが、目の前の成功や利益を追うのではなく100年先に花開く夢を描いた「本物のぶどうづくり」を目指した結果だと思います。

事業の浮き沈みには社会背景もあり、運もあります。事業が成功するかどうかは、自分の代でどうのという短期的な判断ではなく、そこで働き暮らす人々のことを本気で考え、100年、200年先の未来を創造できるような土壌づくりを一日も怠らずできるかどうかにかかっていると思っています。そうした一日一日の積み重ねのみが時代に淘汰されない「本物」を残すことができると信じ、これからもこの葡萄園とともに歩んでいきます。
